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Vol.13 大久保秀夫 3/11
 


“二度とあんな屈辱はごめんだ”という
いい知れない恐怖に勝てなかった

●高校受験に失敗すると、どうなるのでしょうか? 困ったことになったのですか?

 高校受験に失敗した僕は、もう中学浪人しながら働くしかないなと思っていたのですが、たまたま二次募集をしている高校があり、そこに入学することができました。なんとか拾ってもらったという感じでしょうね。そんなことがあったから、高校に入ってからはよく勉強しましたよね。僕が入学した高校は、國學院久我山という学校だったんだけど、陸上と野球とラグビーがとても強い学校でね。陸上にも真剣に取り組みました。

 それから時は流れて、今度は大学受験のシーズンがやって来ました。僕はある大学を受けようと心を固めました。勉強も一生懸命やったおかげで、十分合格圏内にも達していました。ところが、受験がどんどん近づいてくるに連れて、僕はだんだんその学校を受験することが怖くなってしまいました。僕はそれまで、一度たりとも、人生から逃げたことがなく、そのことを誇りに思っていました。

 ところが「受験しなくても、いまのままなら國學院大學の特待生になれる。一流大学にやっと入るより、そこよりレベルが下がってもトップを取るほうがいいんだ!」なんて変な言い訳ばかりが頭に浮かんで来るんですね。要するに、中学受験の失敗がトラウマになっていたんです。あんな屈辱は二度と味わいたくない、また、落ちることになったらどうしよう……。そんな感情がどうしようもなく襲ってくるんですね。


●なるほど。意思の強そうな大久保さんにしては確かに珍しく弱気な印象です。

 そうなんです。けれども、“一度死んだ人間が何を恐れることがあるんだ!”と自分を鼓舞しようとするのですが、ダメでした。言いようのない恐怖で、身動きが取れなくなりました。怖かったですね。まわりの友だち連中が希望の大学へと進学していく中、僕は結局、受験を避けて國學院大學に進学しました。この大学受験は、僕が人生で唯一逃げてしまった出来事かもしれません。僕の性格をよく知っている両親を含め、まわりの人たちはみんな不思議がっていましたよね。

 そんなふうにして大学に入学したものだから、僕はすっかりふぬけた人間になってしまいました。特待生という立場でしたし、成績もオールAで非常によかったのですが、勉強をバカにするようになっていました。フラフラとアルバイトばかりして、人生を舐めきったような態度を取っていたように思います。この大学受験からの2年間のことは、いまでも本当に後悔しています。


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Vol.13 大久保秀夫 2/11


逃げ道を用意してしまうと、
人は弱くなってしまうと思うんです

●いま、大久保さんはご自身の足で歩いていらっしゃいますが、交通事故後、すぐに歩けるようになったのですか?

 おふくろに「歩くよ」と宣言した僕だったけれど、現実問題として、やはり歩けませんでした。小学校に入っても、僕は歩けないまま。だから歩く練習をはじめました。この練習がものすごく大変で、痛くて痛くてたまらないんですよ。一歩足を踏み出すと、とたんに痛みで気を失ってしまう。そのくらいの痛みだったんですよね。

 きっと、まともな人ならやり続けられなかったかもしれませんね。痛みに対する恐怖心はもちろんありましたよ。でも、僕はやり続けたんです。すると、少しずつ歩けるようになりました。そして、小学校を卒業する頃には走れるようにまでなったんです。中学に入学した頃には、陸上の選手になりました。中学で一生懸命がんばったおかげで、高校に入る頃には、陸上選手としてスカウトされるまでになったんですよ。

●お医者さんの診断は、見事に外れたわけですね。

 病院の医者は、僕のことを一生歩けるようにならないと言いました。でも、結果として、僕は他のクラスメイトたちよりも早く走れるようになってしまいました。医者というものはなんていいかげんなんだろうって、僕は思いましたよね。“一生医者にだけはならないぞ!”、と、胸に誓いましたよ(笑)。

 それから、人の言うことを気にしないようにしよう、とも思いました。生きていると横からいろいろと後ろ向きなことを言ってくる人っているんですよ。でも、そんな言葉に耳を貸しちゃいけないって思ったんです。自分のことは自分で決める。自分の人生は自分で選ぶ。自分で“歩く”と決意したから歩けるようになったわけですからね。僕は中学生のときに、そんなふうに生きていこうと決めたんです。


●すると、中学生以降は、すべて自分の強い意志でものごとを決めてきたということですか?

僕は自分の人生から、これまで一度も逃げませんでした。ただ、一度だけ、逃げてしまったことがあります。そのときの話をしましょう。

中学生のときに陸上をがんばった僕は、高校受験をするのですが、そこで失敗しています。陸上に励んでいたこともあって、すごく行きたい優秀な高校に合格できるほどは勉強をしていなかったんですよね。滑り止めはを受けることはまったく考えませんでした。なぜなら、滑り止めを用意することは、逃げにつながると思ったからです。逃げ道があると、人間弱くなってしまうでしょう。だから、難しい目標だったけど、本命一本しか受けなかったんだよね。ところが、その受験に失敗してしまったんですよ。



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Vol.13 大久保秀夫 1/11
 


「歩くよ」と言った僕を見て、
おふくろが泣いていたことをよく覚えています

●大久保さんのこれまでの歩みをお伺いしたいと思います。幼少期に印象に残っていることはございますか?

 僕は、5歳のときに一度死んでいる人間なんです。どういうことかと言いますと、5歳のとき、幼稚園からバスに乗って帰ってきた僕は、バスを降りて道を渡ろうとして、反対方向からやってきた大きな車にひかれてしまいました。そのまま50メートルほど引きずられてしまいましてね。そこら一面は血の海。大人が6人がかりで車を持ち上げて僕を救い出してくれたのですが、即死だと思ったらしい。そのくらいひどい出血だったんですよ。

 僕の両親に連絡が入ったときも「息子さんが交通事故でお亡くなりになりました」というような話だったみたいでね。救急車で病院に運ばれる間、救急隊員の人にも手がつけられないような状況だったらしいのです。いつ心臓が止まるか。それをただ待っているような状態だったんですね。

 ところが僕の心臓はなかなか止まりませんでした。手術をしても無駄だろう、ということだったのですが、母親の懇願により、手術をしていただけることになりました。頭蓋骨骨折、内臓破裂、足は複雑骨折。医者もどこから手をつけていいのかわからないようなありさまでしたが、足のほうから順番に処置していくことになったんですね。足、お腹、頭と、どんどん手術が進みました。その間も、いつ心臓が止まってもまったく不思議じゃありませんでしたが、最後まで僕の心臓は止まりませんでした。


●出来事自体も壮絶ですが、生き延びようとする5歳の男の子の生命力も壮絶ですね。

 そうなんですよ。僕が一命を取り留めたのは、医学的にはありえない例だったようで、僕は“奇跡の子ども”として新聞に掲載されました。僕の実質的なマスコミデビューは、つまり5歳のときだったんです(笑)。

 治療を終えて退院するときも、僕はまだ車椅子に乗ったままでした。そんな僕を、おふくろは動物園に連れて行ってくれましてね、そこで言ったんですよ。「お前は、一度死んだんだよ。一度死んでしまったんだけど、神様が特別に、新しい命をくださった。だから、お前はその命を使って、精一杯、人のお役に立つように生きなさい」ってね。そして、付け加えてこう言ったんだ、「でも、神様はひとつだけ、お前に試練を与えたんだよ。お前は、もう二度と、その足で歩くことはできないんだよ」って。

 僕はまだ5歳だったから、おふくろの言っていることの意味があまりよくわからなくてね。「え? どうして? 僕、歩くよ」って言ったんだ。そしたら、おふくろは泣いていたよね。すごくよく覚えてますよ。



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Vol.13 大久保秀夫

株式会社フォーバル 代表取締役会長
公益財団法人CIESF(シーセフ) 理事長
大久保秀夫

【プロフィール】
1954年生まれ。東京都出身。國學院大學法学部卒業。
日本の伝統的大企業と
外資のフルコミッション型営業会社を経て、
双方の問題点を体感。
日本企業と外資企業の良いところを
合わせた会社を作ることを理念に創業を決意する。

1980年に新日本工販株式会社(現・フォーバル)設立。
1988年当時日本最速で上場(店頭公開・現JASDAQ)、
また、社団法人関東ニュービジネス協議会から、
第1回アントレプレナー大賞において優秀賞を受賞する。

2008年春、カンボジアでの教育の欠如が叫ばれる中、
学校を作ること以上に「教師の育成」が重要だと考え、
公益財団法人CIESFを 立ち上げた。

【会社紹介】
事業内容:企業経営を支援する情報通信コンサルタント集団として、オフィス向けの光ファイバーを利用したIP電話サービスやFMCサービス(固定通信と移動体通信を融合したサービス)などの通信・インターネット接続サービス/OA・情報通信機器の販売/Web構築やセキュリティ対策などのインターネット関連サービス/サービス導入後の利活用をサポートする「アイコンサービス」の普及/経営コンサルタント事業にも本格参入を果たす

【組織紹介】
活動内容:「真の愛情と情熱をもった世界レベルの教育者の育成」「利他の心と国際的視野をもった高度人材の育成」を理念に、カンボジアへの教育支援を行っている。


 
Vol.12 鈴木菜央 9/9
 


まずは目標を立てること
そしたら、理想に近づくために行動あるのみ!

●greenzは、これからどのような方向に進もうと考えていらっしゃるのでしょうか?

 現在の目標は、greenzで収益を上げられるようにすることです。“greenzで食べていけるようになったら、もっと世界をイイ方向に変えていけるのに!”という思いでいっぱいです。具体的には、greenz読者をもっと獲得して、さらに議論が活発になるようコミュニティとして醸成させたいと考えています。

 でも、“たくさん読者がいるから広告を入れてください”という方向には進みません。そうではなく、greenzが新しい道具になればいいと思っているんです。greenzに混ざってくる企業の理念と読者の意見が有機的に結びつくことで、新しい価値を生み出したい。それが、サステナブルな社会をつくっていくことになるんです。

 そして、さらにその先の形態として目指しているのはメディアとエコヴィレッジの融合です。メディアはメディアで、クリエイターたちのSNSを作るなど進化させていきたいのですが、リアルな場所としてのエコヴィレッジもつくっていきたいんです。

 『ザ!鉄腕!DASH!!』という番組に「DASH村」ってありますよね。あれはセレブ用の閉じられた空間ですが、僕らは一般に開かれた形でああいうものをつくりたい。廃材を使ってエコハウスをつくったり、農体験をしたり、電気の売買を行ったり……。新しい社会の実験場にして、世界中の国から人が訪れるような場所にしたいですね。


●就職を控える学生など、若者にアドバイスがあればお願いいたします。

 最終的なゴールを思い描くことが大事だと思いますね。5年後でも10年後でもいいんだけど、「こういうことがやりたい」ってことを書きだして、できるだけはっきりさせる。そして、どうやったらその理想にどうすればたどりつけるかを考えるんです。

 でも、近道することを考えるばかりが人生でもありません。どういう道に行っても、そこに学びのチャンスはあります。迷いながら歩いていけばそれでいいのではないでしょうか。挑戦せずに終わるよりも、失敗してもいいから自分の考えた方法でチャレンジするべきだと思います。せっかくの人生ですから。

 僕もそんな感じでしたからね。常に“これでいいのかな?”と考えていましたよ。“大学時代にもっとバックパック旅行をしておけばよかったなぁ”、なんて後悔だってあります。大切なのは行動することだと思いますね。まずは行動ありき。それをもとに、いろいろなことを考えればいいと思います。

<了>


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